心を確かめたい

ブログを書きたくなるときは、恋してるときなのかもしれない。だとしたら、今私は恋してる。本当はのめりこみたいんだけど、経験がまったをかける。私は本当に彼のこと好きなんだろうか。彼が私に優しくしてくれるのは特別なのだろうか、それとも。私のこの気持ちは、今だけの一時的な気持ちなんじゃないだろうか。あのときのような、ただの舞い上がり。とかいろいろ。私は気持ちを言葉にしてるんじゃなくて、言葉にすることで気持ちを確かめてる。私は私の気持ちを知りたいから、もやもやした気持ちをこんな風に書き散らす。いや、書き散らすことで気持ちを作り出している。今まさに、私の恋心は作られているんだと思う。

多重人格

母親を毒殺した少女について、テレビが好き勝手言っていて腹が立つ。二重人格だ、とか。「僕」の方の人格が母親を殺したんだ、とか。感情が失われてる、とか。ブログなんて、別人格で当たり前。「本当の自分」というものこそが、そもそも存在しないんだから。私も、多重人格だ。みんな、多重人格。だって、相手によって自分を変えるでしょう。相手に、自分はこんな人だって思って欲しい人を演じるし、語る。ブログは、それ以外の世界で属しているどのコミュニティとも違う相手に向かうのだから、違うに決まっている。そして、こう思って欲しいという人間像を作ることは実生活よりもずっと簡単だ。文字だけだから。だから、ブログ上の人格が直接対面する人にとってのその人とどんなにかけ離れていても、全く問題ない。二重人格を装うことも、ブログ上で自分を印象付けることに効果的だ。ブログを過大評価しないほうがいいと思う。爆笑問題の太田さんがすごくいいことを語っていてすごく見直した。

表現の危うさ

表現はその人がそれが特別だと思っていることに問題がある。ただありふれた一人としてしか周りは思ってないのに、みんなにすごいと思われる欲望が表現を生み出し、それがまた妄想を生み出す。自己顕示欲は、危険だ。自分の存在を誰かに知らしめる一番の方法は、一番大事なものを手に入れること。つまり、人の命を奪うこと……?

本当に伝えたいメッセージ

コミュニケーションの一番本質的なものは、相手の言ったことを繰り返すことだ。そこには何の新しい情報も有用な言葉もない。あるのはただ、「今私はあなたの言ったことをちゃんと受け取りました」というメッセージだけ。これは、愛し合う人々が持っているものであり、大切にするものであると思う。
だんだん、オチのないなんでもない話をするのが難しくなってきた。相手が笑ってくれるかどうかが、自分の発した言葉の価値を決めるようになってきた。本当になんでもない話をしなくなった。だから、それをうんうんって聞いてくれる人を恋しく思うのだろう。どんなにつまらない話をしても、その話に大きな価値があるみたいに、興味をすごく示して聞いてくれる。向こうも、オチのない話をいっぱいしてくれる。そこには、穏やかで暖かでやわらかい空気が流れる。それがすごく好き。だから私は彼といると、伝えたいことがものすごくたくさんあるような気がするんだ。