人、ひと、ヒト…

「人として重要なものが欠けている人は、人ですか」という問いに、こんなふうに答えてみた。
「人として重要なもの」は誰が決めるのでしょうか。あなたの主観的な価値判断ですか。それとも世論ですか。
一般的に「○○は△△か」という問いに答えるには「□□は△△ではない」という事例を考えるのが近道です。
オオカミに育てられた少女は人でしょうか。
脳死したら人でなくなるのでしょうか。
これらに対する答えは現在ありません。つまり何が人か、ということに対し社会的に合意ができていないということです。
従ってあなたの質問に対する回答は個人的な考えにしかなりえないということを踏まえた上でお読みください。
私の個人的な考えでは、生物学的なヒトが社会的な人であることには二つの条件が必要です。
一つは、自分は人であるという自覚、もう一つはそのヒトは人であるという他者の承認です。
従ってオオカミ少女はヒトですが人ではありません。
ただ脳死したヒトは、人であるという自覚があった主体と同一であると他者が承認している場合人であると思います。これは論理的には欠陥であり個人的な想いとしてあるものですから、この部分を論理の柱とするつもりはありません。
自己は他者との関係の中で自己を確立する、というのは有名な話であり、社会生活を営まない人はいない(寡聞にして知らない)ことから、人には他者が必要です。
「人として重要なもの」が上記の二つに含まれるのであればそれが欠ければ人ではなく、それ以外のものが欠けても人であると考えます。

ほんとうはこんな風に言い切れないもやもやした部分があるんだけれど。全てをはっきり言うことは、できないし、危険だとも思う。